いがのくにふるさとはなし

伊賀國

伊賀國曾和家

東川吉嗣

伊賀國の玄關頁
はじめに

  三重縣の西北部、伊賀國名張に曾和姓を名乘る小さな一族がある。筆者はその眷属の一端に屬する因縁で曾和家の出自傳承を聽いてゐる。ここでは曾和家に傳はる出自傳承を基に曾和家と伊賀に關する事柄を思ひ付く儘に議論いたします。  

伊賀國曾和家出自傳承に就いて
  伊賀國南部、現在の三重縣名張市の南部山間地に中知山(ナカッチャマ)といふ小さな集落がある。現在は過疎の村の一つであり、現在の集落の一部分は、往年の集落の中心よりも自動車の便の良い所へ移動してゐるやうである。村の鎮守「八柱神社」と菩提寺「常福寺」、そして現在「曾和屋敷跡」といはれる雜木林のあるあたりが往年の集落の中心であつたと見られる。この中知山で、代々庄屋職を勤めてきたのが曾和家である。
  筆者の父、東川定吉の父は、この曾和本家の長男、曾和佐次右衞門で、その祖父、曾和藤左衛門が最後の中知山庄屋である。
  定吉が父、佐次右衞門から聽かされた曾和家の傳承の中に、曾和家出自譚がある。その内容は簡單に言へば、「曾和の先祖は、佐那具の向かふの甲賀近くのイヅシ谷といふ所から國津へ移り來て、神屋、布生、中知山、青蓮寺の開拓に携はり、中知山に居着いて庄屋となつた」といふものである。イヅシ谷とはどこか、曾和家が伊賀の北部のイヅシ谷から伊賀の南部の國津へ移り住むに至つた經緯はなにか。興味深い點の一つである。
  曾和家は藤左衛門の時代に二度の火災に遭ひ、明治になつて佐次右衞門の父、富藏の時代に中知山を出でて夏見へ移り住んだ。曾和家自身の系圖や文書の存在について、筆者は知らないが、火災その他で消滅したかも知れない。現在わかる曾和本家の當主の名は、古い順に、
藤五郎(藤左衞門の父)→藤左衞門(富藏の父)→富藏(佐次右衞門の父、曾和藤五郎の父)→佐次右衞門(東川定吉の父、曾和榮一の父)
であるが、曾和榮一は昭和二十一年に病没し、佐次右衞門も昭和三十年に病没したことから、現在は、佐次右衞門の弟、藤五郎の末裔が夏見で曾和本家を繼いでゐる。その當主關係は
曾和藤五郎(佐次右衞門の弟、曾和良雄の父)→良雄→哲也
である。
  曾和家の名にに多く使はれる「藤」といふ字には、何か意味があるのか。それは單に往時の流行に沿ふものに過ぎないのか。あるいは、藤堂家とか、藤原家とかに關係があるのか。興味のある點の一つである。
  「中知山」とい地名についても曾和家の傳承があり、「昔は神屋を上知山、青蓮寺を下知山と言ふた」といふ。神屋と中知山、中知山と青蓮寺は、それぞれ谷を隔てて隣り合ふ位置にあり、中知山は明治までは國津の一部とされてゐたことから、國津、神屋、布生、中知山、青蓮寺と連なる一帯は、密接な關係にあつたと見られる。現在では「上知山」とか「下知山」といふ呼稱は用ゐられないが、「上知山、中知山、下知山」といふ呼稱は往時には廣く使はれてゐたのか、あるいは開發當事者である、曾和家のみで使はれた呼稱なのか。また「チヤマ」とは何か。興味深いことである。

 この傳承に關して『伊和新聞』平成六年十月朔日號第三面に筆者が投稿した記事とそれに添えた新聞社の取材記事が掲載されてゐる。記事には誤植と事實誤認が見られるので、この網上葉の以下の議論では誤つた内容の訂正も心がけた。


 @出自傳承の信頼性について
 江戸時代は江戸時代初期の社會體制をそのまま固定し、庄屋の家に生まれたものは庄屋職を繼ぎ、當人の能力いかんよりも家柄や出自が地位を保證するのが原則であつた。山間地の固定された社會、しかも中知山のやうな小さな村の中で事實無根の傳承はあり得ない。「曾和家が中知山の開發當事者であり、主導権を握つて開發に關與した」といふ傳承そのものが村内での曾和家の地位を保證するものである。曾和家にとつては、中知山で庄屋を勤めるには、壓倒的な政治力もしくは壓倒的な經濟力といつた現實的な力を持つとともに、自分の地位の正當性を主張するためには、その拠り所を必ず傳承しなければならないものである。佐次右衞門が生まれた時は既に明治の時代であつたが、佐次右衞門の父親はそれまでの言ひ傳へを傳へることを忘れなかつたし、佐次右衞門も自分の子に傳へたのである。
 Aイヅシ谷とはどこか
 甲賀近くのイヅシ谷。定吉の殘した身邊雜記帳である『留書』によると、佐次右衞門の話では「佐那具の向かふ」だといふ。伊賀南部の中知山から見て伊賀北部の佐那具の向かふといふとき、方角は廣く取りうるが、佐次右衞門は定吉と佐那具の西に位置する島个原に住んだことがあるので、島个原方面ではないだらう。その方向は佐那具の北もしくは北東方向に狹められる。
 伊賀と甲賀の國境一帯は信樂焼や伊賀焼の原料礦石の産地である。このために國境爭ひが昔からあり、イヅシ谷も現在の伊賀域に限つて探してはいけない。
 「イヅシ谷」とは「石が出づる谷」であらう。日本全國どこにでも石は出るが、地名に「イヅシ谷」といふかぎり、それは「經濟的な價値を持つ石」とか「靈力の宿る御神體の石」など特別な意味を持つた石の出るところであらう。佐那具の北、現在の阿山町石川には、「眞木山神社」があり、この神社の舊社地は白石谷といひ、白色の珪石が御神體とのこと。槇山から丸柱にかけての一帯は現在の甲賀域も含め良質の陶土の産地である。
 B中知山住み始めの時期
  中知山の菩提寺「常福寺」の前に曾和家累代の墓石が無縁塔の如く集められてゐる。これは常福寺の裏山一帯、つまり曾和屋敷跡の裏山にも連なる地域、に散在してゐた曾和家の墓石を整理したものである。曾和こうの證言では、それらの墓石の古い物の中には、「天文」の年號を刻んだ物もある、とのこと。中知山の小場の埋葬地である「さんまい」は、常福寺から離れた所にあり、曾和家の墓地だけが屋敷の裏山に連なる山中に散在するといふ特別なあり方をしてゐたらしい。「天文」の年代は、中知山が公式に發足したとされる藤堂高虎の上野城建設の時期、慶長十三年よりも五十年前後早い年代なので、中知山の正式發足前のこの地に曾和家の生活基盤がすでに存在してゐた可能性がある。
 C「上知山、中知山、下知山」の地名
  神屋は「上家」とも表記されてゐたやうである。二万五千分の一の地圖でおほよその標高をみると、神屋と布生は約四百メートル、中知山は三百五十メートル、青蓮寺は神社のあるところが二百七十メートルである。中知山から見ればまさしく神屋は「かみつやま」であり、青蓮寺は「しもつやま」であり、自分のゐるところが「なかつやま」である。この場合の「つ」は位置や場所などを示す。また「ち」は「あっち」「こっち」「どっち」「そっち」と言ふときの「ち」で、方向を示すので、やはり「上知山、中知山、下知山」は實際の位置關係を表してゐるとみてよい。また「上中下」は開發の順序も意味したかも知れない。
 D曾和の意味
  「ソワ」は「山の傾斜地、そばだつた嶮しい所」を意味する。氣持が落ち着かない樣子を「そわそわ」と表現するのも同じ意味から不安定な心のありさまを示すのかと考へられる。山に暮らし、山を支配する「山の民」「そまびと」が曾和氏である。「ソワ」を「曾和」と表記するのは最も平凡な眞假名の遣ひ方である。
  「ソワ」を名乘る姓の中には「峙」と表記する例もある。この人達は「ソワ」が「山の傾斜地、そばだつた嶮しい所を意味する」ことをはつきりと意識してゐることが判る。その一例として或る「峙」さんの紹介ページ平成十六年七月二十八日、接續確認。がある。ここでは「峙」と書いて「ソワ」と讀むべきことが示されてゐる。
  また、食べ物の蕎麥も、同じ語源を持つかも知れない。ネットで百科では、「ソバは山間の高冷地に適し,播種から 75 日で収穫できるといわれるように,短期間で取入れが可能なため,山村では焼畑の初年度作物として多く作られた。高知県土佐山村では,焼畑をソバヤマといったという。」(飯島吉晴)と書いてゐるが、山の傾斜地「そわ」に植えることから「そば」と言ふた可能性も考へられる。
 E八柱神社について
  中知山の鎮守は八柱神社である。中知山の始まりは、藤堂高虎が上野城を建設するための用材確保のために、長瀬の飛び地の中並小場の八戸を中知山へ移住させた時だといふ。この創業の八家族の先祖を祀るのが八柱神社なのか、あるいは逆に鎮守の八柱神社から八家族といふ創業譚が作られたかも知れない。また、新しい土地へ住居を移すとき、とりわけ小さな集團であるから、兄弟を別々の家族として數えることも、兄弟家族を一家族と數えることも出來うるわけで、「八」といふ縁起の良い數字にひかれて創業時の家族數を決めたのかも知れない。
  『伊和新聞』平成六年十月朔日號第三面には新聞社の取材記事が添えてあるが、明らかな誤りの箇所があるので、重大な誤りのみをここで訂正しておく。この誤りに就いては、記事掲載直後に新聞社宛に指摘文を郵送濟み。
  一、夏見の積田神社前に建つてゐて、現在は道路擴幅工事のために片づけられてゐた「曾爾街道の碑」は曾和佐次右衞門が建立に着手したもので、曾爾街道の建設に功績があつたのは佐次右衞門ではなくて、分家の曾和喜代太である。ここに掲載した冩眞は、平成十五年四月六日に、曾爾街道始點の夏見橋たもとにて撮影。
  一、現在の夏見の曾和家は佐次右衞門の弟、曾和藤五郎の末で、記事掲載當時の當主は曾和良雄で、病床にあつた。曾和こうは曾和良雄の妻。
  一、明治十三年當時の曾和本家當主は佐次右衞門の父、曾和富藏である。

參考文献

○中知山など關聯地名の一般的な説明 -- 『角川日本地名大事典24三重県』昭和五十八年,角川書店刊行。
○曾爾街道の石碑の碑文の内容 -- 『名張市史』
○甲賀の陶土陶石の状況について -- 藤岡二郎編集『山間支谷の人文地理』昭和四十五年、株式會社地人書房刊行。第三十七乃至六十七ページ。「1章 地形,地質,信楽盆地の気候および信楽地方の窯業原料」
  佐那具の北側に位置する甲賀伊賀地域の陶土採掘場、陶石採掘場の分布がわかる。

追記

○「そわ」の意味として、『登山・スキー用語辞典』には、「そわ 下野で山腹をいう。」とある。(『登山・スキー用語辞典』、日本山嶺倶樂部編、昭和二十四年、株式會社朋文社、『山』十一月號別冊附録)


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○令和五年六月九日、再編集。
○平成二十年九月十六日、電子飛脚の宛先訂正。
○平成十六年七月二十八日、訂正。
○平成十六年四月八日、五月十日、増補。
○平成十五年十一月二十五日、携帯電話版を掲載。
○平成十三年正月十三日、掲載。
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