自分が小學生の頃。昭和二、三十年代。自分にとつて、祭と言へば「名張の春日さんの祭」、「鍛冶町のえべっさん」そして「積田神社の祭」であつた。
「名張の春日さんの祭」と「鍛冶町のえべっさん」は名張の町あげての祭だつたので、近郷からの人の出が多く、柳原、鍛冶町、上本町、本町、中町までは、出店が並び、人で一杯だつた。名張の祭には曾爾の邊りからも人が出てきた。自分は名張小學校へ通ふてゐたので、「春日さんの祭」と「えべっさん」の日は、午前中の二時限位で休みになつて、早く家へ歸つた。同じ學級の平尾の女の子は、巫女役をしたし、外にも、名張の町の子には子供の役割があつたと思ふ。
ごく幼い頃は親と一緒に、小學生になつてからは、幾ら貰ふたか、記憶に無いが、小遣ひを貰ひ、兄と一緒に町へ行つた。祭で買ふた物は、ちゃちで、すぐ毀れたが、今思ひ出して見ると懐かしい。祭で賣つてゐたのは、子供向けの物ばかりではないが、大人の物には關心が無いのであまり憶えてゐない。
親に買ふて貰ふた物
○セルロイドのお面。幼い頃は金太郎や、お龜、火男、天狗などの面が賣つてゐた。自分が買ふて貰ふたのは何の面だつたか、憶えてゐない。
○細い枝の先に絲で吊した、ツバメ。枝を振り回すと、ツバメの尾が風で廻り、その時にツバメの腹のブリキを擦り、ヒヨヒヨと音がする。面白い仕掛け。
○ブリキの拳銃。火藥の玉を巻紙の上に並べて捲いた物を付けて、引き金を引くとパンと音がして一つ分の火藥を送り出す仕掛け。
自分で買ふた物
○擴大縮小の模写具。「く」の字形に繋いだ目盛付きの棒、二組を組合はせて、一つの端に鉛筆をつけて、別の端の針を原畫になぞらえながら、擴大もしくは縮小の繪を複製する道具。人氣俳優の冩眞などを上手に複製しながら賣つてゐた。安いのは木で、高いのは金屬で出來てゐた。一番安いのを買ふたが、接續部分が木ねじだつたので、すぐに毀れた。高校の幾何で相似の原理を習ふた時に、この道具の仕組みが理解できた。
○何と言ふ物か知らぬが、幾らでも消せる、書き込み板。帳面位の大きさの白い板に薄紙を載せたもので、木の先などで書くと、薄紙が板に粘りついて、濃い色に書けるが、消す時は、板と薄紙の間に通した棒を横へ移動させると紙が板からはがれて、書いた物が消える。薄紙が破れたか、粘着材が駄目になつたか、いづれにしろ、ぢきに毀れた。
○透視眼鏡。間にある物を透けて目的物が見えるといふ道具。賣る人は、自分の手を日にかざして、「これで見れば、手の骨が見える」、「自分の頭の此処に、戰時中の鐵砲の彈が殘つてゐる。これを通して看れば見える」と言ふて、見てゐる客の一人に、これを使はせて、「見えるだらう」と言ふてゐた。これで女の人を見ては駄目だとか、便所の中の人を見るなとか言ふてゐた。自分も兄も一番安い、小さいのを買ふた。家へ歸り、早速使ふて看たが、何も見えないので、ばらしてみたら、二枚のガラス板の間に窗を明けた紙二枚を挾み、その窗の所に、鶏の羽根の薄い所を挾んであつたので、インチキだと知つた。次の年に、同じ物が賣つてゐたので觀てゐると、大きい高い品を大の大人が買ふてゐたので、自分は自分の事を棚に上げて「インチキやのにアホやなあ」と思ふた。
○競争競技遊び。紙の上に幾つか齣を置いて、片隅にあるゴムのついた廻轉軸を廻すと、斷續的な振動が起こり、不均等に齣が進む。ゴムの彈性と、慣性の法則を巧く利用した遊び。何の競争だつたか憶えてゐない。
○忍術の本。福袋のやうなものか、あるいは何か外の物と一緒だつたか知らないが、薄つぺらな忍術の本とか、ページの揃わない透明人間の漫畫の本などが這入つてゐた。この忍術の本には、平成になつてから、名張市圖書館の郷土コーナーを訪れる機會があつて、その時、再會した。
○けきょ。エベッサンの吉兆飾り。小枝に縁起の良い品の雛形を澤山ぶら下げたもの。こんな物を買ふのは、小學生もお終ひの頃。
○エベッサンの蛤。エベッサンならやつぱり蛤も買はうか、となるのは、子供を卒業の頃。エベッサンの後は、子供らは、貝の角を石で擦り、小さな穴を二つ明けて、併せた貝を口にあてて「ブウウー」と音を出して遊んだ。
自分では買はない物
○火事場の萬年筆。とのふれこみで賣つてゐた。灰まみれの萬年筆を布で拭きながら、並べて賣つてゐた。後ろの壁には、萬年筆工場が火事になつたとの新聞記事を切り抜いて貼り付けてあつた。翌年も同じ場所で、同じ貼り紙で、同じ萬年筆を賣つてゐたので、インチキだと判つた。
○樟脳の小舟。盥に水を張り、小さな船を浮かべてすいすい動くのを見せてゐた。
○ししの肉と皮革製品。大きな臺に猪の切り身、猪の毛皮で作つた靴などを並べて賣つてゐた。
○陶磁器。茶碗や皿など。父が、祭の翌日、自轉車で買ひに行き、小皿などを纏め買ひしてゐた。
○食べ物。食べ物を買ふた記憶は無い。歩きながら物を食べる習慣が無かつたからかと思ふ。
○輪投げや射的。あつたやうな氣がするが、不確か。
積田神社の祭り
自分の家は積田神社の氏子ではなかつたので、氏子としての行事は知らない。
幼い頃、松永の「祭の膳」を積田神社へ貰ひに行つたことがある。空の重箱を持ち、社務所へ行くと、「あんた、何処の子や」と訊かれた。「坊垣の東川や」と言ふと、近くにゐた人が「この人は松永さんや」と言ひ、別のひとも「そやそや松永さんや」と言ふて、中に入れてくれた。社務所の中に座が設けられてゐて、折敷に型抜きしたやうに四角いおこわが置かれてゐたのを、自分の重箱に移し、ユズの皮の切れ端も一緒に貰ふて歸つた。松永は父の従兄弟にあたり、同じ家で一緒に育ち、今は名張から離れてゐるので、うちが松永の代はりをしてゐたもの。
積田神社の祭りには、境内に店が何軒か出たと記憶するが、何か物を買ふた憶えがない。神社の參道の春日燈籠には、かわらけに容れた油に火が燈されて風情があつた。前の晩は「よみや」と言ふて、「サーッサーッサー」といふ聲が聞こえて、大人達が羽織袴で提灯をともして神社へ行つたが、よくは知らない。晝間は獅子舞が舞ふた。獅子は中に二人が這入り、外に天狗、火男、お亀がゐて、なかなか激しい動作の舞ひをする。その年の舞ひ初めは坊垣の深山家へ行き舞ふのがしきたりといふ。深山が、獅子舞を習ふてきたのが、夏見の獅子舞の始まりと聴いた。深山での舞ひ初めをしない年は何かと不都合があつたとのこと。夜、神社の本殿前で焚き火をしながら獅子舞がある。ある年、祭りの後で、「こないだの夜、吉嗣さんは一番前で、太鼓に併せて首を振りながら、一所懸命に獅子舞を見てたって、だれ誰さんが言ふてたわ」と母に言はれた。
今は子供御輿もあるさうだが、自分が童の頃は大人の御輿だけだつた。
積田神社は二十一年に一度、大きな建て増しや修繕をして、これを「ぞうく」といふてゐる。今年は「ぞうく」にあたるとのこと。
自分は名張を離れてから、あちこちの神社や獅子舞を見たが、積田神社の參道の長さと整備、宮の森、春日燈籠の列、どれを取つても、優れた風情である。しかし、今ある「鹿の銅像」など、わざわざ金を掛けて風情を壊してゐるやうに見える。獅子舞も、舞ひの内容は、よそのものより完成度が高く優れてゐるやうに思ふ。
積田神社を紹介しているページ
http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/sisetu/shokubunka/iga.html
三重の食文化 5 伊賀地方の秋祭りとその食文化
この中に「名張 積田神社秋祭り (11月2日、3日) 」が紹介されてゐる
附 中知山の祭り
祖父曾和佐次右衞門がゐた頃は、中知山の祭りには、膳が屆けられたとのこと。
獨立運動の志士 リサール 切手集 |