いがのくにふるさとはなし
伊 賀 國
遊び歌の思ひ出
東川吉嗣
遊び唄
筆者が童の頃、昭和二十年代から三十年代の始め、伊賀の名張で、自分らが遊びの時に唱へた唄。かくれんぼなどで、鬼を決める時に、參加者の履いてゐる履き物を一列に並べて、端から順に唱へ唄を唱へて、唱へ終りの履き物の持ち主が鬼になる。その時の唄。
裏 表 だ チ ち 草 縁 草
か の あ ュ ゅ 履 の 履
ら 看 れ ッ っ を 下 隠
回 板 も チ ち 喰 の し
つ 三 喰 ュ ゅ は 鼠 チ
て 味 は ク く へ が ュ
三 線 へ 饅 ち て ウ
軒 屋 ん 頭 ゅ レ
目 ワ は ン
シ 誰 ボ
が が ウ
喰 喰
ふ ふ
た た
「チュウレンボウ」は、以前は草履の並んだのを注連縄に例えて「チュウレンジョウ」と音讀みしたのかと思ふてゐたが、さうではなくて、九連寶燈のことか。麻雀遊びで數字の札が一列に並ぶことを指して「九連寶燈(ジョウリエンバオトン)」といふらしい。
「チュッチュク饅頭」は不明だが、鼠の聲と關係した名前。
「三味線」は猫の皮を張るので猫と、鼠は天敵の猫とそれぞれ關聯してゐるか。
この唄は、攝津の尼崎育ちの同年輩の人も童の頃に唄ふたことがあるとのこと。また、大和生まれの兩親を持つ、大阪育ちの人も童の頃に唄ふたことがあるとのこと。名張は大阪の文化圏なので、その影響か。
この歌の京都での採録例が「梁島章子先生のお話」「わらべうた 光への旅」と題したページの「京都」の部に「下駄隠し」として紹介されてゐる。令和五年六月九日、接續確認できず。)
また、かくれんぼなどで鬼を決めるときには、いろは歌も唱へた。
ゑ あ や む つ よ ち い
ひ さ ま う ね た り ろ
も き け ゐ な れ ぬ は
せ ゆ ふ の ら そ る に
す め こ お を ほ
み え く わ へ
し て か と
これは、いろは歌の意味を無視した、七文字づつを唱へる唱へかたの傳統を引くもので、古い時代の手習ひ唄からのものかと思ふ。しかし、「すせもひゑ・・・」と逆順に唱へることはなかつた。
遊び歌ではないが、次の樣な歌を唱へたことがある。
昭和三十年ころ、夏見の坊垣の子供は箕曲小學校へ通ふ者と、名張小學校へ通ふ者とあり、一緒に歩いて行
き、通學路が分かれる沈み橋になつた坊垣橋のところで二手に分かれながらそれぞれ大聲で唱へた。
歸 取 取 先 虱 机 ぼ 箕
り つ り 生 と に ろ 曲
な た ま ` り も 學 の
さ 人 し 一 た 校 學
い か た 匹 れ 校
ら て
箕曲小學校へ通ふ子らは、「名張の學校、ぼろ學校」と唱へる。以下は同じ文句。
坊垣小場は以前には箕曲村に屬し、ここからは、箕曲小學校へも名張小學校へも、同じ位の距離であり、市町村合併、戰後の農地解放のための不在地主作りの分村、名張市への合併などの經緯もあり、通學區の學校である箕曲小學校でなく、名張小學校へ通ふ子も多かつた。
また、面白がつて、こんな歌を唱へたこともある。
か い ご し さ に い
へ は め つ ん い つ
つ ず ん こ ち ち ち
て に も し や や や
き て ん ん ん
た と が と
こ こ
で の
これは、かしらが「一二三四五」と並んでゐるだけの面白さである。童の頃に何とか「六七八」と續かぬものかと思うた憶えがある。
この歌と同じものが、河出書房新社編『ことば讀本 ことば遊び』(平成二年、株式會社河出書房新社)の第227ページに、出典を示さずに紹介されてゐる。その歌詞は「一ちゃんちの二イちゃんが、三ちゃんちで四イばって、五めんも言わずに帰っちゃった、六ちゃんちの七ちゃんが、八ちゃんちで栗もろて、十もいっぺんに食べちゃった」とある。
また、織田正吉著『ことば遊びコレクション』(昭和六十一年、株式會社講談社、講談社現代新書)の第167ページに、これも出典を示さずに紹介されてゐる。その歌詞は「いっちゃんちの にいちゃんが さんざわるいこと しやがって ごめんもいわずに ろくでなし 泣かそか はっ倒せ くやしいか とぼけるな」とある。(この部分、平成二十五年五月、追記。)
お正月の羽根衝き歌に、
お こ や な む い よ み ふ ひ
と こ く な さ つ ね や た と
ま の し や し や ご こ め め
り や の の し
で
といふのがある。意味はよくは判らないが、「ひと目、ふた目と、見に、お越し、良いおなご。何時やの、むさし。七夜の藥師。此処の家で、お泊まり」ならば、「一度や二度は見においで。この良いおなごは、いつだつたか、むさ苦しいなりでゐた子だ。七夜の藥師講には、ここの家でお泊まり」とでもいふことか。
藤森衞彦著『伊賀の巻』(大正八年、日本傳説叢書刊行會、日本傳説叢書)には、「名賀郡の民間風俗」の年中行事の正月の夜待{よまち}として、「正月{しやうぐわつ}二十三日{にち}は三夜待{やまち}、十七日{にち}より廿三日{にち}までの七夜間{やかん}を七夜待{やまち}、二十六日{にち}を六夜待{やまち}などと言{い}つて、月{つき}の出{で}るのを待{ま}ち、其身{そのみ}に幸{さち}あらんことを祈{いの}る。」(第173ページ)とある。「ななやのやくし」とは、正月の「七夜の夜待ち」の訛だと考へれば、その夜待ちをここの家でしなさいといふことになる。それぞれの語句が、「ひふみよいむなやこと」と數の順に從ひ、良い數え歌になつてゐる。
この歌と同じものが、やはり、河出書房新社編『ことば讀本 ことば遊び』(平成二年、株式會社河出書房新社)の第228ページに、出典を示さずに「鞠つき唄、羽根つき唄」として紹介されてゐる。その歌詞は「ひとめ ふため みやこし よめご いつやの むかし ななやの やくし ここのつの とおで とうならとうんと おおさめた」とある。この歌詞の「ここのつの とおで とうならとうんと おおさめた」は、「ここのやで おとまり」に較べると、數えるのを諦めた歌詞であり、「此処の家でお泊まり」といふ意味が判らなくなつてからの變形かと想像できる。
一方、
數え唄や唱へ唄は、遊びと共に傳はり易く、憶え易いが、その歌詞の意味が判らなくなると、勝手に適當な歌詞を創ることになる。「一ちやんとこの兄いちやんが」の唄も、昔の子澤山の頃には、六助や七兵衞、八郎も身近であつたが、今の子達には想像すらできないかも知れない。そのやうな歌詞の唄を歌ひながら樂しさうに遊んでゐるのを觀ても、歌詞の内容は意味のあるものとは聞こえず、單なる呪文にしか感じられないことであらう。
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この網上葉の經過
○令和五年六月九日、引き紐の接續確認。
○令和五年五月二十三日、「書き込み帳」への案内を削除。
○令和二年三月十五日、「羽根衝き歌」の解釋を書き替へ。
○平成二十五年五月十二日、「數え歌」に追記。電子飛脚の宛先を變更。
○平成二十四年八月十五日、「數え歌」と「羽根衝き歌」に追記。
○平成二十四年一月三十日、「羽根衝き歌」に追記。
○平成二十年拾月拾二日、引き紐の接續確認。
○平成十九年十二月十日、電子飛脚の宛先を更新。
○平成十七年四月八日、接續確認更新。
○平成十五年拾月十七日、電子飛脚の宛先を更新。
○平成十五年正月二十四日、「伊賀國ふるさとはなし書き込み帳」を設置。
○平成十五年正月二十一日、接續確認更新。
○平成十四年十二月二十日、「羽根衝き歌」を追加。
○平成十四年十二月十二日、接續確認更新。
○平成十四年十二月十日、増補。
○平成十四年十二月七日、増補。
○平成十四年十一月二十四日、掲載。
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